• キレイとカラダに関するお悩み相談受付中です♪

はじめに

はじめまして。
京都市の四条大宮で
整体院HARUを経営している
芦尾美瑳と申します。

「みさのキレイとカラダVlog」は、
1人でも多くの人を笑顔にしたい
という思いで立ち上げました。

キレイとカラダに関することを
ブログで情報発信しています。

今回は、プロフィールなので
自分のことをお話ししてみます。

共通点が少しでもあれば
嬉しいです^ – ^

生まれ故郷や家族

私は大阪府の八尾市に生まれ
自然と触れ合って育ちました。

夕焼けや夜景がとても綺麗で
心が癒されていました。

市民の森から撮影した夜景

わたし自身は子供の頃から、
絵を描くことが好きで
今もずっと描き続けています。

家族は祖父、父、母、兄、弟の
6人家族の長女として育ちました。

わたしは、
自分らしく生きることを
大事にしています。

たくさんの人を通じて
自分を見つめ
どうすれば自由で幸せに
生きていけるのかを
自分で見出しています。

整体院HARUが出来るまで

作業療法士を目指す

高校3年生の夏頃まで、
「将来、何をしようかな」と
進路に悩んでいました。

当時、体調を崩しがちで
病院に行ったことをきっかけに
人生が大きく変わりました。

診察の待ち時間に、白衣を着た
リハビリテーション科の先生が
患者さんと家族さんに笑顔で
「ありがとう」と言われている
姿を目にしました。

その姿が格好良く見えました。

あの時の先生みたいになりたいと
仕事に興味が湧いてきたので
病院からの帰り道は、リハビリの
仕事について調べました。

そして、理学療法士という
リハビリの仕事があることを知り
理学療法士学科のある学校を
見学しに行くことに決めました。

理学療法士学科では、
棒体操の体験をしましたが
あまり好きになれませんでした。

たまたま作業療法士学科の先生に
「楽しかった?」と声をかけて貰い
正直に思ったことを話すと
「作業療法士学科の方があなたには
向いていると思う。」と言われました。

作業療法士って何だろう?と
疑問に思って質問をすると、
「作業療法士はココロとカラダに
寄り添い、患者さんの生活や
生きがいに深く関わる事が出来る
人間味に溢れた素敵な仕事だよ。」
と教えて貰いました。

作業療法士学科の見学では
自助具の体験したり、先生の話を
聞いて心を強く動かされました。
そして、作業療法士になりたいと
思うようになりました。

しかし、作業療法士の学校は
思った以上に学費が高く
母がかなり驚いていました。

父に相談しても
「お金がないし就職して、自分で
お金を貯めてから学校に通ってくれ。」
と言われ諦めかけていました。

そんな時、生まれた時から
実家で一緒に暮らしていた祖父が
「わしにリハビリをしてくれるなら
学費は全部出したる。」と言い
専門学校に通わせてくれました。

祖父は認知症を患っていましたが
決してカツアゲではありませんwww

作業療法士学科に入学した後は
資格取得のため必至に勉強をしました。

祖父の認知症は徐々に進行し
授業が終わり家に帰ると毎日のように
祖父と父が大喧嘩をしていました。

家に帰りたくなかったので
学校で夜9時頃まで友人と話したり
図書室で読書をしていました。

家に帰る時は、忍者のように
そーっと部屋に入っていました。

それは、祖父が昼夜逆転していて
見つかると「何してるの?」と
朝まで話しかけられるからです。

担任の先生が図書室に
いつも遅い時間まで友人と
一緒にいることを気にかけて
声を掛けてくれました。

その時、祖父が家で大暴れしていて
家に帰りたくないと話しました。

認知症に対しての知識がない
私に担任の先生が
「作業療法士的な目線で一緒に
おじいを分析してみる?」と
声を掛けてくれたことは
今でも覚えています。

認知症について学んでいくと
祖父が私のことを
心配してくれていると
思えるようになりました。

そして、家族に認知症について
学んだことを伝えてみましたが
「家族だから優しく出来ない。」と
ハッキリ言われました。
正直、家族の気持ちも分かりました。

祖父が父のことで機嫌が悪くなると
やかんや茶碗、掃除機、ガラス、
あらゆる物がふっ飛んでいて
毎日、激しかったです_:(´ཀ`」 ∠):

「物を投げるな、いい加減にして。」と
私も大声で怒ってばっかりでした。

ケアマネージャさんの提案で
祖父がデイサービスに行くことになり
気持ちが落ち着いてきました。

デイサービスで紙パックの小物入れや
フェルトのカレンダーを作って
嬉しそうな顔で私や母に
プレゼントをよくしていました。

祖父がデイサービスに行っている間、
母はのんびりと過ごせていました。
環境がいかに大切か学びました。

学校は3年制で1・2年生の時は、
毎週土曜日に整形外科の
リハビリ助手のアルバイトをして、
毎週日曜日は介護初任者研修の
資格を持っていたので
介護のアルバイトをしていました。

学生時代から患者さんや
医療・介護スタッフと関りが多く、
現場のことを沢山学ばせて貰いました。

現場には、祖父のような認知症の
患者さんもいましたが
穏やかに過ごされていました。

認知症の患者さんにとって
安心出来る場所は大事なんだと
改めて気付きました♬

作業療法士の資格を取得には
実習が必須で
1週間の見学実習、
1ヶ月半の評価実習、
2ヶ月半の臨床実習2回の計4回、
取り組みました(*⁰▿⁰*)!

実習が厳しいと有名な医大や
脳卒中に特化した市民病院、
数少ない子供のリハビリを
学ぶために遠隔地で
雪山1人暮らしの経験もしました。

実習はかなり大変でしたが
無事に全て合格点に
達する事が出来ました。

実習地で学んだことや、
辛かったこと、嬉しかったことは
今も活きる経験となっています。

実習を全て終え学校に戻ってからは、
休む間も無く国家試験に向けて
朝から晩まで必至に勉強をしました。

父が「怖いぐらい食べる
おじいさんが饅頭も残してる。
絶対、何かおかしいで。」と
いち早く変化に気付きました。

父の観察は正しく祖父は
病院へ救急搬送されました。

どうやら心臓が
悪くなっていたようです。

病院にお見舞いに行くと
祖父はかなり弱っていたものの
父と喧嘩をしていて安心しました。

お見舞いは父と母に任せて
勉強に専念しました。

丁度、国家試験の2ヶ月前、
母から1本の電話がありました。

弟のご飯の事かなと思い
電話をかけ直すと「おじいが死んだ。
これからお葬式場に向かうね。」
と言われ、祖父が死んだ事実を
知ることになりました。

あまりにもいきなり過ぎました。

お通夜前日からお葬式の日まで
お葬式場に家族全員で泊まって
祖父の横でゴロゴロと
本を読みながら過ごしました。

祖父は眠っているような
顔色をしていましたが
カラダに触ると冷たくて、
関節も固くなっていきました。

作業療法士になって
祖父にリハビリをする約束は
果たせなかったです。

人間、死んでしまったら
何もしてあげられないという
後悔だけが残りました。

友人の励ましもあり
作業療法士国家試験当日まで
気持ちを切り替えて一緒に
勉強を全力で頑張りました。

その努力は報われ、
作業療法士国家試験に
合格する事が出来ました。

卒業後は、作業療法士として
3年間勤務しました。

祖父のことやリハビリ助手からの
経験を活かして地域に密着した
領域で働くことに決めました^ – ^

1年目から地域に密着した
領域で働く人は中々いないので
臨床で苦労したことは多かったです。

しかし、作業療法士という
仕事が大好きになりました。

入学前に先生が言っていた通り
患者さんの生活や生きがい、
人生に関われるやり甲斐のある
魅力的な仕事でした。

患者さんや家族様、他職種の
人達から「ありがとう。」と
言われることは本当に
嬉しかったです(´ー`*)

整体師までの道のり

臨床の現場ではカラダの
痛みを訴える患者さんがとても
多い事に気が付きました。

目の前の患者さんを良くしたくて
様々な勉強会に行きました。

しかし、患者さんの痛みがスッキリと
取れることはありませんでした。

そんな時、Facebookで繋がった
理学療法士の先生にセミナーを
紹介して貰い、治療技術を
学びに行くことに決めました。

講師は理学療法士の
資格を持ちながら整体院を
独立開業している先生でした。

セミナーでは表面的に痛みが
ある部分に施術をするのではなく
本当の原因部分に対して施術を行う
考えは目からウロコでした。

また、カラダを根本改善へと導き、
再発しないカラダ作りをしていく
考えにもとても共感が出来ました。

患者さんとしっかりと向き合い
根本から痛みを改善するために、
カラダの状態を正確に把握し
施術していきたいと思いました。

整体院を独立開業している先生の
影響を受けて
お店を開業したい思いが強くなり
施術技術や経営のことを
たくさん学ばせて貰いました。

入職1年目にも関わらず
独立開業をしたいという思いが
当時は湧いていました。

しかし、自分なりに迷いながらも
夢に近づきたいと決めたのに
応援して貰えるどころか止められて
「誰もわかってくれない。」と
自分の殻に閉じこもっていました。

そこから、3年間、独立開業を
諦めてしまった自分を許せずに
ずっと、引きずっていました。

そんな時、たくさんの事を
学ばせて貰っていた先生と
久しぶりに会話をして
雇ってもらうことになりました。

そして、京都市の西院で整体院の
院長を任せて貰うことになりました。

地元から離れ京都へ

3年間、作業療法士として
務めた会社は25歳の
誕生日の日に退職しました。

25年間、住んでいた故郷からも
離れ、京都に引っ越しました。

初めは、友人もみんな大阪で
孤独を感じていました。

しかし、ありがたい事に
素敵な人との出会いが多く毎日が
あっという間に楽しくなりました。

仕事も朝から晩まで休む暇なく
我武者羅に働いていました。

しかし、そんな日も長くは
続きませんでした。

ギランバレー症候群にかかる

25歳の夏、体の異変に
気が付きました。

下痢や嘔吐などの症状が
酷く只事ではないと感じ
内科に行きました。

お医者さんからは入院か
点滴をしないと危ないと
言われました。

売り上げのこともあり
仕事を休めなかったので不調を
我慢し続けていました。

その結果、体重は5キロ近く
落ちてげっそりとしていきました。

顎がシュッとしたのは地味に嬉しかったですw

お客さんが心配して、
OS-1や水、お粥を
差し入れしてくれたり
家事も手伝ってくれました。

本当に色々な人に
助けられてばっかりでした。

日が経ち嘔吐は治りましたが
なぜか両手に力が
入らなくなっていきました。

・お箸が持てない
・フライパンを落とす
・洗濯物を干すのに2時間以上かかる
・ペットボトルの蓋が開けられない
・両手は痺れ、肩が痛む
・大好きな絵が描けない

出来ない事はどんどん
増えていきました。

いつか、大好きな整体の仕事や
大好きな絵が描けなくなる時が
くるのではないかと思い
絶望感に襲われ続けていました。

病院で、CTを撮っても
異常がなく紹介状を貰いMRIにも
異常がありませんでした。

お医者さんからは、
抹消神経の問題が考えられると
伝えられました。

今後、全身の運動が困難になり
最後は呼吸も出来なくなってしまう
病気の可能性が高いと言われました。

「・・・。」
作業療法士ということもあり
病気のことに理解があったので
言葉を失いました。

うちでは無理だという話になり
精密検査をするために
神経内科の紹介状を貰いました。

紹介状先の病院へ行くまでの
約5日間は考え事をしていました。

目を背けたくて
病院に行く事を辞めようかなと
専門学校時代の親友に言うと
精密検査をして分かった方が
気持ち的にも良くない?と
言われました。

京都で仲良くなった親友は
心配して泣いてしまいました。

今までくよくよと悩んで
吐いた愚痴は状況をいくらでも
変えられる選択肢があって
その有り難みに気が付きました。

もっと、自由に自分らしく
生きれば良かったと
後悔をたくさんしました。

紹介状先の病院まで、車で
仲の良いお客さんが
連れていってくれました。

病院では、採血を10本抜かれ、
電気生理検査を受け、
握力検査が2kgで落ち込んだり
ずっと複雑な気持ちでした。

検査結果が出るまでの間、
仕事を休みにくかったので
感覚もなく握力2kgの状態で
仕事をしていました。

検査結果を聞きに行くと
年間15万人に1人かかる
ギランバレー症候群に
かかっている事が分かりました。

この病気は自然治癒していき
完治できる可能性が高い病気と
知っていたので安心しました。

日に日に手の力は戻り生活も
元通り送れるようになりました。

ギランバレー症候群にかかり
知ること、学ぶこと、気付くことは
本当にたくさんありました。

手が不自由な人の気持ちが
分かったこと。

作業療法の知識を活かして
生活をやりやすくする
工夫を色々と考えられたこと。

手に力が入らなかったり、
肩や手に痛み・痺れがある
お客様の気持ちが分かったこと。

買い出しや洗濯、調理などの
家事を手伝ってくれたり、
友人がご飯を届けてくれたり、
心配して泣いてくれる人や
励ましてくれる人がいたり・・・。

人の優しさや温もりに
気付くことが出来たこと。

予後が悪く長く生きられない
病気の可能性があると
ドクターに言われ、人生、
もっとやりたいようにしないと
後悔すると気付けたこと。

好きな事を自由に出来る事が
どれだけ幸せなことか
心から身に沁みる事が出来ました。

若くして健康の有り難みに
気付けたことに感謝しています。
きっと、強くなれたと思います。

私らしく生きる道

ギランバレー症候群の後遺症で
体幹・両手の筋力が改善しない中、
仕事を毎日していました。

そして、ドクターから
腕の使いすぎによる
頸肩腕症候群、頚部筋筋膜炎と
診断されました。

セルフケアだけでは
追いつかなかったので、
理学療法士の先生に体を
ケアして貰い痛みや痺れが
徐々に軽減していきました。

また、鍼灸師の先生にも
鍼治療をして貰いました。

初めて治療される側になり
人の身体をよくする仕事が
心から好きになりました。

お客様のために全力を尽くし、
しっかりと向き合って施術を
続けていきたいと思いました。

私自身、大きな病気にかかって
痛みや痺れの後遺症は
半年ほど続いていました。

痛みと痺れは生活習慣の
積み重ね方次第で変化が起きることも
自身のカラダで実感出来ました。

私は痛みや痺れを取る方法は
必ずあると信じています。

そして、慢性的な痛みや痺れは
悪い日常生活習慣の積み重ねから
起こっていることが多いです。

痛みや痺れを改善へ導くために
私の経験、正しい日常生活習慣、
体の動かし方、セルフケアを
お客様に提供することには
価値があると思いました。

良い習慣を身に付けることで
痛みと痺れを克服出来ました。

元気な時は絵を描ける幸せに
気付いていませんでした。

しかし、病気を経験して
絵を描くことも今まで以上に
楽しくなりました。

整体院HARUが出来る

私はもっと自分を大切にしようと
覚悟を決めた時、、、
春を感じるようになりました。

心がワクワクすることをすると
自分のため、人のためになる
そんな気がしました。

自由な時間をたくさん持って、
自分らしく生きようと決めました。

私の周りには、経営者の方が
多かったこともあり
独立をみんなに勧められました。

「芦尾さん(みさちゃん)なら
きっと大丈夫。応援するよ。」
と沢山の人に勇気付けられました。

事業をするにあたって
お金の融資、テナント作り、
ホームページ作りなど
沢山の人に協力して貰いました。

そして、みんなの協力のもと
整体院HARUが出来ました。

大切な場所だからこそ長く
続けていきたいと思いました。

痛みや痺れで困っている人を
改善できるように
全力でサポートしていきます。

最後に

誰でも「これでいいのかな?」と
悩んでしまう時があると思います。

どの道が正しいかは、
進んでみないと分かりません。

好きな事がありながらも
進むべき道に悩んでいる方が
このブログに出会って何事にも
挑戦してみようかな?
と思って貰えたら嬉しいです。

また、お客様が笑顔になる事が
出来る目標を一緒に考えて、
痛みや痺れといったお悩みが
解決する事が出来るように
整体院HARUで施術をしております。

国家資格である作業療法士の
専門性や、整体師の専門性を発揮し、
キレイとカラダに関する情報を
ブログで発信しています。

ブログを大勢の人に向けて
書くことで私自身も
とても勉強になっています。

自分ができる関わってきた人への
恩返しは「キレイとカラダに関する
お悩みを解決すること。」と
気が付き自分の存在意義を見つけました。

このブログに訪れた1人でも
多くの人を笑顔にしたいから
キレイとカラダに関する情報を
ブログで発信しています。

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本当にありがとうございます。

痛みや痺れでお悩みの方、
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